讃岐の国は平安末期、8世紀末には現在の香川県の耕地面積のおよそ7割、22,400haの開拓を終えており、この時代すでに確固たる農業生産基盤を築いていました。その模様についてお話します。
讃岐平野の開拓の歴史を概観すると、3つの大きい開拓の時代があったことを指摘できます。その第1期は古墳時代中後期から奈良朝末期にかけて激しく行なわれた古代条里制開拓です。そして開拓の第2期は藩政時代に入っての新田開発です。さらに第3期は明治以降現在に至る現代の開拓です。このうち古代条里制開拓はその規模が最も大きく、その後において古代の開拓を凌ぐ開拓はなかったと言っても過言ではありません。
これは坂出市東部神谷平野の空中写真です。田んぼが碁盤の目に整然としているのが分かります。今から千数百年前に開拓された古代条里制遺構です。古代条理制開拓とは古代日本土地区画制度であり、碁盤の目状の整然とした地割を持った開拓です。
これは観音寺市の条里です。財田川を挟んで高屋町、村黒町一帯に条里を発見できます。この上に条里の罫線を乗せてみるとよく分かると思います。このように、碁盤の目にまず線引きしておいて、それから計画的に開拓を推し進めるというのが古代条里制開拓です。
これは条里地割図ですが、654mの幅に大きく桝目を組みます。縦の帯を条、横の帯を里として、この条と里によって区画される1枡を36等分しその1枡を坪と呼びます。この1坪は1町歩(1.2ha)で、この1町歩を10等分します。10等分の仕方には長字型地割と羽織型地割の2つの方式があります。讃岐平野の大部分は羽織型が中心です。こうして地割された田んぼに○条○里○ノ坪畔本○反地というように地番が打たれます。今も讃岐平野各地に三条とか五ノ坪、八反地などの地名がたくさんありますが、これは条里の名残です。
これは高松平野と寒川平野の条里の復元図です。両平野の条里は若干方位を異にしています。そして三木町白山付近で両方の条里は幾何学的にうまく接合されています。これにより、両平野の条里の線引きが同時に一気に行なわれ、開拓も同時に進められたと考えられます。地図上にある沢山の点は古墳の位置を示しており、この古墳の集積状況から高松、寒川両平野には古代豪族の支配がいくつかあったことが窺えますが、条里制開拓の線引きはこの支配を越える大きな力によって行なわれています。この大きな力とは大和朝廷であったと思われます。
この図は讃岐平野で現在水田として開発されている地域を赤と黄色で着色しています。その内の赤の部分が古代条里制開拓地域で、平野の4割を占め、22,000haです。黄色の部分は古代条里制開拓以降の開拓で、主に藩政時代の新田開発と見て間違いありません。古代条里制開拓の起源は定かでありませんが、その完成は奈良朝末期というのが定説化しています。平安時代に編纂された「和妙抄」(現在の百科事典に相当するもの)には全国の各国々の田が記載されていますが、讃岐の国は18,647町歩と書かれており、1町歩が1.2haですので換算すると22,400haとなり、現在の香川県の耕地面積32,800haの68%もの大きい面積です。これほどの大規模の開拓がなぜ讃岐で行なわれたかは大変興味ある問題です。1つ言えるのは讃岐の国は瀬戸内海に面しており、気候温暖で災害が少なく、水不足という問題はありますが、一通りの治水と利水を図っておけば、安定した生産が期待できることです。もう1つの要因としては、大和朝廷は当時、北九州の支配、朝鮮半島との交易の上で備讃瀬戸航路は大変重要な航路で、その安全を図るためにも讃岐の国は非常に重要な位置を占めていたといわれています。いずれにしても讃岐の国は大和朝廷の産業経済基盤を支える大事な拠点地域として古代国家の成立に深く関わったといえます。
このような大規模な開拓にはそれに先立つ治水工事、ため池の築造などが必要です。それについての事例を示します。これは丸亀平野の東の方、飯山町と綾歌町の一帯で、上部の遺構がきれいな所です。大束川の支流は直線的に流れており、この直線は条里の罫線に整合しています。しかもその両サイドに条里の地割が残っています。これは条里制開拓に先立って、条里の線引きの基準線に沿って大束川の治水工事をまずしておいて、その上で開拓を推し進めたということです。その治水工事が確かなものであったために、大きな河川の氾濫などがなく、千数百年経った今でも条里の地割がきれいに温存されているということです。
これは高松平野の東の方、三木町にかかるところで、ここには吉田川と新川があり、前田西町で合流しています。そして合流した後、急角度に流れを北へ変えて海に流れ込んでいます。この前田西町の合流点に行くと、この2つの川が合流してから真直ぐ春日川の方へ流れ込んでいた痕跡をはっきりと読み取ることができます。地図や空中写真で見るとさらに鮮明です。これはこの2つの川が合流して洪水量が大きくなったらそのまま春日川に合流させたのでは、春日川の流域の洪水と一緒になってとても当時の土木技術では制御できないので、新田町、百石新開一帯の新田開拓に先立って吉田川と新川を北へ向かって付け替えたのではないかと睨んでいます。この付け替え工事はその規模から考えて藩政時代のものであると思います。西嶋八兵衛の仕業かもしれません。古代の治水工事として面白いのは、この合流点の卵型のところには条里の地割がありません。ここは遊水地として使われていた形勢が濃厚であり、ごく最近まで近所の方がこの両サイドの新川、吉田川の堤防のことをオンメンツツマと呼んでいました。これは内側の堤防が外側の堤防より2mほど低く築かれています。そして大洪水の時には内側に水を氾濫させて、遊水をさせて、この優良な農地を守ろうとした古代の智恵が窺えます。この上に条里の罫線を乗せると、吉田川の堤防が直線的に条里の罫線と整合しています。この堤防のことを地元の方は長土手道と呼んでおり、この道は旧南海道と目されています。ここで面白いのは、この長土手道の下流に向かって右側の堤防は大きくしっかり造られていますが、左側は無いのに等しい状態です。ちょっと大きな雨が降るとこの平田池を含んでこの一帯が海のようになって、ここを遊水地として活用していたことが窺えます。そしてこの優良な条里制開拓地域を守ったのです。同様のことが新川でも見られ、左岸堤防はしっかりしていますが右岸堤防は無いのに等しい状態です。これが古代の治水工事の智恵であります。
これは丸亀平野北部のため池の分布状況を表しています。ため池が一見無計画にぱらぱらと点在しているように見えますが、実は地理的必然性が秘められています。この一帯は古代条里制開拓地域で非常に整然とした地割を持っています。しかし注意深く眺めてみますと、ここに地割の乱れがあります。そして水途を発見できます。こういう水途、洪水の線に沿ってため池は発達しているのです。それを分かりやすくします。昭和37年に3日連続の豪雨があり、水が渋滞しているところを着色してみました。水途に沿ってため池が発達しています。このように水がよってくるところにため池が発達したということです。また、赤は弥生時代の遺跡ですが備高地に住居を構えて原水田稲作を営みながら、最初は白波関で出発してやがてそれが小さなため池に変わり、やがて大規模な条里制開拓の時代に入って耕地が拡張するにつれ、ため池がだんだん発達していったというプロセスではないかと思います。
日本書紀では孝徳天皇が大化2年(646年)の条で勅命を発しています。つまり、時の天皇が各国々の国司に対して堤を築きなさい、水路を穿ちなさい、田を開墾しなさいという命令を発したのです。満濃池はそういう時代背景の下に創築の機運が高まったと思われ、707年に時の国司によって完成を見たのです。
これは現在の満濃池です。堤高が35m、貯水量1,450万tで、弘法大師ゆかりの日本一の農業用ため池であると香川県民が誇りにしているものであります。弘法大師が築いた頃の規模がどの程度であったかを、大林組が平成5年にプロジェクトチームを組んで現地検証を行ないました。私もその一員として加わりました。その報告書によると弘法大師が築いた満濃池の規模は堤高が22m、貯水量は500万tであったということです。香川県には100万tを超えるため池は17しかありません。その中で当時500万tというのは、大海原とも思えるような大変なため池であったと思います。香川県には14,600のため池がありますが、河川本流を直接せき止めたため池は5、6個しかありません。その中で満濃池は金倉川本流をせき止めた本格的なダムです。9世紀初頭の技術としては誠に卓越したものであったと思われます。しかしあまりにも大きい満濃池は1185年に決壊し、その後450年にわたって復旧されずに放置されました。そして藩政時代に入って世の中が落ち着いて、寛永8年に西嶋八兵衛によってようやく復興を見たのです。
讃岐平野は一歩郊外へ出ると緑豊かな美しい田園風景を目にすることができます。しかしそこには古代条里制開拓に始まり、藩政時代の新田開発へと繋がる農民たちのたゆまない開拓の歴史が秘められているのです。そして14,600余のため池とそのため池ごとに仕組まれている水利慣行など先人たちの密度の高い制度があります。このような素晴らしい農村景観とため池文化は大切に次の世代に継承していかなければならないと思います。